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地図に浮き出る「経験」を辿って――くるり、はっぴいえんど、小沢健二

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Text, Photo: 兒玉真太郎

 空想地図の“一見現実にありそうなのに、実は空想だった”という面白さは、どこから生まれているのだろう。地図というメディアが「客観的に世界を書き起こしたしたもの」として一般に信じられている、という構造がきっとその背景にある。地図を通して揺らいで見える空想と現実。この関係性について考えてみたい。

 高校生まで私は、空想に触れることに少し苦手意識を持っていた。本を選ぶときは小説よりも地図帳かルポルタージュ、テレビでもドラマよりドキュメンタリーを選んだ。漫画も、実際に舞台が想定されていたり、現実世界にアクセスできる作品、湘南のスラムダンクや、東京葛飾のこち亀には楽しくのめり込んだ。実際に見たことある何気ない景色や、不意に見た地名には安心できるのに、他の作品には入り込むのが疲れてしまう。空想や創作にも興味を持てたら、どんなに世界が広がるだろう、と悩みつつ結局、目の前の現実世界を追究することに熱中してきた。高校から家への帰り道は30分ほど自転車だったが、その間だけでも、通ったことがない道をなくすつもりで、どんな行き止まりの道も“塗りつぶし”ていった。そうやって枝道や抜け道からいつも通る道を見ると、見慣れた場所なのに、建物の位置関係や、そこだけの音の静けさからまるで違った街に見えたりして楽しかった。大学に入ってからは地理学を学んだので、地域性を感じ取る器官を研ぎ澄ませるための4年間になった。

 千葉の実家から東京の予備校と大学へ通っていた約5年間、東京の景色はかなり馴染み深いものになった。くまなく歩くのが、空きコマの楽しみで、その歩く時間のために、意図的に空きコマを長くたくさん作っていた。効率よく単位を取ることを考える人からしたら、相当非効率に映っていただろう……。

 街をあるいていると、突然音楽が流れてくることがある。「僕が旅に出る理由はだいたい百個ぐらいあって」と歌うくるりや、「ところは東京麻布十番 折しも昼下がり 暗闇坂は蝉時雨」と歌うはっぴいえんどを聴いていて、同じように、小沢健二(オザケン)の音楽も、自分に馴染むように聞こえてきた。歌の中で出てくる地名は、作曲したり歌ったりしている人のそこでの体験や感情が再現されるようなきっかけとして理解できて、歌われている時期や季節・状況に、自分が行けば重ね合わせることができたりする。地名を通してみると、音楽や写真はもちろん、最初に話したような小説やドラマなどからも、自分が共感できたりする糸口がつかめて、一気に馴染みやすくなるのだ。人の創作や空想、表現のなかには、その人の体験や感情が滲み出ている・滲み出していることもあるということに、東京での大学生活で気づいたのだった。

 オザケンの歌は、自分に向き合いつつ、その舞台としての地域や、自分の置かれている状況にも自覚的なものが多いと思える。空から自分を見ているようで、その瞬間は自分からの目線や感覚に忠実でありつづける素直さが、いつも勇気づけてくれるのだ。彼の歌詞には頻繁に東京の景色が出てくるのだが、それが無数の個人と、時間と脈々とつながるものであることを、彼はきっと知っている。

 私は大学院に進学して東京から福岡に引っ越した。その年2022年の夏、ここ福岡でオザケンのライブに向かった。会場にはあちこちに、東京の航空写真や交通網だけが書かれた白地図、河川と海が強調された単色の地図などが切り張りしてあって、メインビジュアルもそれで構成されている。渋谷川とその下流の古川が強調され、選ばれていた図幅も神宮外苑や渋谷駅、駒場東大前、原宿といったエリアの戦後の航空写真だった。どこも「渋谷系」と括られてブームだった90年代のオザケンと関わりの深いエリアばかり。タイトルには「『強い気持ち・強い愛』歌詞地図」と書かれていた。本人が強い要望を持ってデザインしたらしく、こうして地図が表現のツールになっていることに勝手に嬉しくなってしまったのだった。一種の空想地図なのかもしれない、と思った瞬間だった。この『強い気持ち・強い愛』は1995年リリースの曲でもう30年前の曲なのだが、2022年に改めて本人によってフィーチャーされたというわけだ。当時の歌詞は、彼自身の体験を反映していそうだし、あるいは、彼がその当時想像した人の像だったのだと思う。その当時の表現に今向き合いながら歌っているということに、当時の心持ちや状況を認める、その強さがある。それを、この地図を携えてライブで歌う姿で目の当たりにした。自分の位置を明らかにするためには、地図はよく適したツールだとも思うから、こうして表現に取り込まれていることに納得もした。

 この曲のなかで私は3番の歌詞が好きだ。「空へ高く照らし出された高層ビルのすぐ下/ほらあっというまの夜明けだよね/美しい空 響き合う空 誰も見たことのない日々を/ギューッと胸に刻みたい/ああ 街は深く 僕らを抱く!」その歌詞は地図上にも書いてあった。

 街に抱かれるという表現は、よく的を得ている。これまで、自分自身が街の観察を通して社会との接点ができてきたこと、音楽が他の人の頭の中や体験にも想像を膨らませるきっかけをつくってくれたことはその前提。最近は、自分の腕の届く距離での充実と言えばいいのか、まわりの環境を確認するよりも先に自分が熱中したいと思えるような体験もあって、よりオザケンの歌詞は自分の感覚とシンクロする。納得できないことや向き合うのが苦しいことに直面したときでも、一方で嬉しいことにも、自分の状況とはもはや関係なく動き続ける街という存在は自分・自分たちを受け入れてくれる様子を見せることがある。こういう経験が、音楽と地図というメディアで繋がった。

 地図の役割は、必ずしも現実を反映することだけではない。イメージを書き起こすツールとして使ったり、そのときいた場所や現在地を確かめて納得する、表現の舞台であって良いのだ。空想地図は、そうやって地図の可能性を広げる取り組みに思える。

 色々な地図を見て、人の空想に入り込んで、人の経験を辿ってみたりする。一方で自分の見ている世界を信じてみたりもする。私はそのあいだを往復しながらいま生きている。少し生きやすくなっているのだ。


兒玉真太郎 Profile

1998年、千葉県生まれ。法政大学、関西大学でそれぞれ文化地理学を専攻し、現在は九州大学大学院芸術工学府修士課程に在籍。長崎県内の離島(池島)で、地域誌の収集整理を根拠に、地域像の抽出と公開の方法を研究している。趣味は街歩き、古書店めぐり、カメラの修理。街を歩いて調べ、景色から想像を膨らませることが楽しみ。今回は空想地図の愛読者として寄稿。

※この記事は、ZINE「空想と地図」Vol. 1 に掲載された記事の再掲です。

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